福岡県発祥のもの49選|ウォシュレットもサザエさんも実は福岡生まれ

肉とごぼう天がのった博多うどん。福岡県発祥のもの49選
目次

福岡から全国展開したチェーン店 4選

黒と朱色の丼に入った、赤いタレがのった豚骨ラーメン
一蘭は1960年、福岡市で創業。赤いタレを浮かべる形の元祖とされています

ファミレス、ラーメン、うどん。
博多と北九州で生まれた店が、いま全国、そして海外にまで広がっています。

一蘭(福岡市)——1960年、赤いタレを浮かべた一杯から

1960年、福岡市の百道(ももち)で創業しました。
ラーメンの真ん中に唐辛子ベースの赤いタレを浮かべる形の元祖とされています。
1966年に小郡市へ移って「一蘭」と名乗り、1993年に福岡市南区に那の川店を開いてから店を増やしました。
仕切りのある「味集中カウンター」と、紙に書いて注文する方式で知られ、今は海外にも出店しています。

ロイヤルホスト(福岡市)——原点は中洲のフランス料理店

ファミリーレストランのロイヤルホスト。
原点は1953年、創業者の江頭匡一(えがしらきょういち)氏が福岡市の東中洲に開いたフランス料理店「ロイヤル中洲本店」です。
開店3か月後にはマリリン・モンローが夫のジョー・ディマジオと来店し、オニオングラタンスープを気に入って毎日注文したという話が残っています。
「ロイヤルホスト」の名前での1号店は1971年、北九州に開きました。

博多一風堂(福岡市)——大名の1軒から世界へ

1985年、河原成美(かわはらしげみ)氏が福岡市中央区大名(だいみょう)にラーメン店「博多一風堂」を開きました。
1994年に新横浜ラーメン博物館へ出店して全国に知られ、今は海外にも店を広げています。
豚骨ラーメンを「博多」の名前とともに世界へ運んだ店です。

資さんうどん(北九州市)——戸畑の店を引き継いで

1976年1月、大西章資(おおにししょうじ)氏が北九州市戸畑区で知人のうどん店を引き継ぎ、自家製麺の工場と本店を開いたのが始まりです。
出汁は戸畑の削り節店と一緒に作り上げたもので、鯖節と鰹節を合わせています。
北九州のソウルフードとして育ち、2023年に大阪、2024年に関東へ進出しました。

福岡で生まれ、世界に広がった企業 6選

側面にBRIDGESTONEの文字が入った、直径約4mの建設・鉱山車両用の巨大なタイヤ
世界3大タイヤメーカーのひとつ、ブリヂストン。始まりは久留米の足袋屋でした

タイヤ、トイレ、石油、ロボット。
久留米にはゴムの産業が育ち、北九州には石炭と鉄と港がそろいました。
今の日本を支える会社のいくつかは、福岡の工場から始まっています。

ブリヂストン(久留米市)——足袋屋のゴム部門から世界へ

久留米はゴム産業の町でした。
1930年、足袋を作っていた日本足袋(現在のアサヒシューズ)のタイヤ部門が、純国産タイヤの第1号を完成させ、翌1931年に久留米で「ブリッヂストンタイヤ」として独立しました。
創業者・石橋正二郎氏の「石橋」を英語にした社名です。
今はミシュラン、グッドイヤーと並ぶ世界3大タイヤメーカーの一角で、久留米には今も工場があります。

TOTO(北九州市)——小倉生まれの「トイレの会社」

TOTOは1917年、小倉で「東洋陶器」として設立されました。
名古屋の日本陶器(現在のノリタケ)の製陶研究所が母体です。
本社は今も小倉にあり、トイレや洗面器などの衛生陶器で国内シェア約6割。
ウォシュレットもユニットバスも、この会社が生みました(くわしくは技術と文化の章で)。

ソフトバンク(福岡市博多区)——雑餉隈の小さなビルから

1981年、孫正義氏が福岡市博多区の雑餉隈(ざっしょのくま)で日本ソフトバンクを創業しました。
パソコン用ソフトの卸売りから始まった会社です。
創業時に入居していたビルは2021年ごろまで残っていて、1階にはソフトバンクの携帯ショップが入っていました。

出光興産(北九州市)——門司港の潤滑油屋から

1911年、出光佐三(いでみつさぞう)氏が門司で、日本石油の潤滑油を扱う「出光商会」を開いたのが始まりです。
満州の鉄道で車軸の油が寒さで凍るトラブルが続いたときに、凍りにくい車軸油を納めて事業を伸ばしました。
門司港には「出光商会創業の地」の碑が建っています。

日産のルーツ「戸畑鋳物」(北九州市)——1910年に設立

日産自動車の設立は1933年の横浜ですが、そのルーツは福岡にあります。
1910年、鮎川義介(あいかわよしすけ)氏が遠賀郡戸畑町(現在の戸畑区)に「戸畑鋳物(とばたいもの)」を設立したのが原点です。
戸畑は八幡製鉄所の隣町です。
鮎川氏が興した会社の流れから、のちに日産自動車が生まれました。
戸畑には「戸畑鋳物株式会社 発祥記念の碑」があります。

安川電機(北九州市)——炭鉱の町からロボット世界大手へ

1915年、北九州で合資会社安川電機製作所として創業しました。
炭鉱会社「明治鉱業」を興した安川敬一郎(やすかわけいいちろう)氏の一族が始めた、電気機器の会社です。
今はモーターを精密に制御する「サーボモーター」で世界シェア1位、産業用ロボットでも世界4位。
本社は今も北九州市八幡西区にあります。

炭鉱と屋台が育てた食 20選

オレンジ色のふたの、小さな乳酸菌飲料の容器が3本
ヤクルトを最初に売り出したのは、1935年の福岡市・唐人町でした

福岡の食の発祥には、はっきりした共通点があります。
筑豊の炭鉱で働く人の甘いもの、博多と久留米の屋台で急いで食べる麺、そして港に着いた外国の食材。
生まれた場所を見ると、その土地で何が起きていたかが分かります。

ヤクルト(福岡市中央区)——唐人町で1935年に売り始めた

医学博士の代田稔(しろたみのる)氏は、1930年に乳酸菌「シロタ株」の強化と培養に成功しました。
それを飲み物にして最初に売り出したのが、1935年の福岡市・唐人町(とうじんまち)です。
今の唐人町には「ヤクルト事業創業の地」の記念碑が建っていて、上の部分があのヤクルトの容器の形になっています。
(※この碑があるのは福岡ソフトバンクホークスの本拠地のすぐそば、というのが野球好きならニヤリとしてしまいそうですね。)

銘菓ひよ子(飯塚市)——実は福岡生まれの「東京銘菓」

ひよ子は1912年、飯塚市の菓子店「吉野堂」で生まれました。
飯塚は長崎街道が通る町で、本州へ運ばれる砂糖が手に入りやすく、しかも炭鉱で働いたあとには甘いものが好まれました。
だから飯塚では、お菓子屋が育ちました。
1964年の東京オリンピックを機に東京へ進出し、東京駅の土産として広まりました。
間違っても福岡県民に「東京名物」と言わないように気をつけましょう(笑)。

チロルチョコ(田川市)——炭鉱の町の菓子店から

チロルチョコを作る松尾製菓は、1903年に田川郡伊田村(現在の田川市)で菓子屋として創業しました。
チョコレートの「チロル」を売り出したのは1962年。
田川は炭鉱の町で、体を使って働く人が大勢暮らしていました。
そこで育った駄菓子屋の定番が、今も本社を田川に置いたまま全国に届いています。

豚骨ラーメン(久留米市)——博多でなく久留米の屋台から

諸説ありますが、豚骨ラーメンの発祥は久留米とされています。
1937年、久留米でうどん屋をしていた宮本時男氏が、屋台「南京千両(なんきんせんりょう)」で豚骨スープのラーメンを出したのが始まりです。
宮本氏は長崎・島原の出身で、長崎ちゃんぽんと横浜の支那そばがヒントでした。
最初は澄んだスープで、今のような白く濁ったスープは1947年に同じ久留米の屋台「三九(さんきゅう)」で生まれました。
こちらは失敗から。
店主の杉野勝見氏が仕込みを母親に任せて出かけ、戻ってみると手違いでスープが強火で煮立ち、白く濁っていた。
捨てる前に飲んでみたら意外においしく、これが今の豚骨スープになったと伝わります。

替え玉(福岡市)——魚市場の町の細い麺から

麺だけをおかわりする「替え玉」は、福岡市・長浜の「元祖長浜屋」が始めたといわれています。
長浜は魚市場のある町。
市場で働く忙しい人にすぐ出せるよう、早くゆで上がる細い麺にし、足りない人は麺だけおかわりする「替え玉」の形ができたとされています。

うどん・そば(福岡市)——宋から帰った僧が製粉を伝えた

うどんとそばの始まりには諸説あり、香川(讃岐)など別の説もあります。
博多の承天寺(じょうてんじ)には「饂飩蕎麦発祥之地」の碑があり、1241年、宋から帰国した僧・円爾(えんに)が粉を挽く技術を持ち帰り、博多で麺を作り始めたと伝わります。
柔らかい麺で知られる博多うどんの原点でもあります。
なぜこの寺だったのかは、記事の最後の番外編で。

年越しそば(福岡市博多区)——博多では「運そば」

年越しそばの由来にも諸説あります。
博多に伝わるのは、承天寺を建てた宋の貿易商・謝国明(しゃこくめい)が、年の瀬に貧しい人たちへそば粉の餅をふるまい、食べた人が翌年に幸運に恵まれたことから「運そば」と呼ばれたという話です。

饅頭(福岡市博多区)——奈良より100年早い「御饅頭所」

日本の饅頭の始まりには2つの系統があります。
ひとつは奈良(1349年)、もうひとつが博多です。
1241年、円爾が宋から持ち帰った製法を博多の茶店に教え、「御饅頭所」の看板を書き与えたと伝わります。
その看板は今も和菓子の虎屋が所蔵していて、承天寺の碑にはその文字が彫られています。

辛子明太子(福岡市)——「漬け込む」型は博多から

先に整理しておくと、明太子のルーツは朝鮮半島の「明卵漬(ミョンナンジョッ)」です。
たらこを塩漬けにして発酵させ、唐辛子とにんにくをまぶしたもので、戦前から釜山と下関を結ぶ連絡船で日本に運ばれていました。
つまり、明太子そのものが日本に入ってきた玄関口は下関です。
博多が発祥なのは、今わたしたちが食べている「調味液に漬け込む」型の辛子明太子。
「ふくや」の創業者・川原俊夫(かわはらとしお)氏が、暮らしていた釜山で食べていた味を日本風に作り直し、1949年1月10日に売り出しました。
この日は今、「明太子の日」になっています。

もつ鍋(福岡市博多区)——戦後の博多で生まれた

牛や豚のもつをニラと一緒に煮る、博多を代表する鍋です。
戦後まもなく博多で働く人たちが、安く手に入るもつを鍋にしたのが始まりとされ、1960年代に広まりました。
同じ福岡でも、田川の炭鉱ではもつを七輪で焼く「田川ホルモン鍋」が生まれています。
どちらも、体を使って働く人の食べものでした。

ニラと唐辛子がのった、湯気の立つもつ鍋
牛や豚のもつをニラと一緒に煮るもつ鍋。1960年代に博多で広まりました

博多水炊き(福岡市)——香港帰りの料理人が完成させた

鶏を水から煮る博多の水炊き。
「発祥の店」を名乗る「水月(すいげつ)」は、創業者の林田平三郎氏が香港で学んだ西洋料理のコンソメと中華の白湯(パイタン)を合わせて、1905年に完成させたと説明しています。
明治のはじめに長崎の人が博多に伝えたという説もあり、どちらにしても外国の料理が港から入ってきて、博多の味になった料理です。

筑前煮(福岡県)——地元では「がめ煮」

鶏肉と根菜を煮た筑前煮。
名前のとおり筑前、つまり福岡の郷土料理です。
地元では「がめ煮」と呼びます。
名前は博多弁の「がめくり込む(寄せ集める)」から来たとも、豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき、兵士が「どぶがめ」と呼ばれていたスッポンをありあわせの材料と煮たのが始まりとも伝わります。
今は鶏肉で作るのが普通で、正月やお祝いの席に欠かせない一品です。

焼うどん(北九州市)——そば麺がなくて、うどんを焼いた

元祖を名乗る店はほかにもありますが、焼うどんは小倉の食堂「だるま堂」が始まりとされています。
戦後の食料が乏しい時期、焼きそばを作ろうにもそば麺が手に入らず、代わりに干しうどんをゆでて焼いたのがきっかけと伝わります。
今は「小倉発祥焼うどん」として町の名物になっています。

焼きカレー(門司港)——昭和30年代、港町の和食店で

ご飯にカレーとチーズをのせてオーブンで焼く焼きカレー。
始まりは昭和30年代、門司港の栄町銀天街にあった和食店「山田屋」とされています。
門司港は外国航路の玄関口として栄えた港町です。
今は門司港レトロの名物として、多くの店が出しています。

八女茶(八女市黒木町)——1423年、明から持ち帰った種から

1423年、明(中国)から帰国した僧・栄林周瑞(えいりんしゅうずい)が、黒木町笠原に霊巌寺(れいがんじ)を建て、茶の栽培と飲み方を伝えたのが始まりとされています。
支えたのは地元の庄屋、松尾太郎五郎久家(まつおたろうごろうひさいえ)。
今の八女は玉露の産地として知られ、全国茶品評会の玉露の部で上位を独占したこともあります。
黒木町には「八女茶発祥之地」の碑があります。

うなぎのせいろ蒸し(柳川市)——掘割の町の冷めにくい形

たれを混ぜたご飯にうなぎをのせ、せいろで蒸す柳川の名物です。
発祥は江戸時代の柳川とされています。
有明海に面し、町中を掘割(水路)がめぐる柳川は、うなぎが身近な土地です。
蒸すと冷めにくいことから、漁師町でも好まれたと伝わります。

梅ヶ枝餅(太宰府市)——菅原道真を励ました老婆の餅

太宰府天満宮の参道に並ぶ梅ヶ枝餅(うめがえもち)。
大宰府に左遷された菅原道真を元気づけようと、老婆が餅を差し入れたのが始まりと伝わります。
道真の死後、その老婆が餅に梅の枝を添えて墓前に供えたことから、この名がついたといわれています。
参道で焼きたてを食べるのが、太宰府参りの定番になっています。

あまおう(福岡県)——県の試験場が育て、名前は公募

いちごの「あまおう」は、福岡県農業総合試験場で交配して育てられ、2005年に品種登録されました。
「あかい・まるい・おおきい・うまい」の頭文字が名前の由来で、福岡市の会社員の応募案から選ばれています。
香港や台湾では日本の2〜3倍の値段でも売れる、福岡の看板いちごです。

宮川早生(柳川市)——早生みかんの親は柳川の庭で

秋の早い時期に出回る早生(わせ)みかんの代表品種です。
1910年ごろ、柳川市の宮川謙吉氏の宅地内で見つかった枝変わり(突然変異の枝)で、1925年に柑橘研究の第一人者・田中長三郎氏が「宮川早生」として発表しました。
宮本早生や小原紅早生(おばらべにわせ)など、ここから枝変わりで生まれた品種もあります。
柳川には「宮川温州みかんの発祥の地」の碑があります。

ダックワーズ(福岡市)——フランス菓子の名で福岡生まれ

小判形の焼き菓子ダックワーズは、福岡市の菓子店「16区」のオーナーシェフ・三嶋隆夫(みしまたかお)氏が考案しました。
パリ16区の店でシェフをしていた1979年、ケーキの土台に使われていた生地を「和菓子の最中のようにできないか」と考え、試作を重ねて1981年に福岡で売り出したものです。
今はフランスでも人気になり、店は「ダックワーズ発祥の店」を掲げています。

福岡が生んだ技術と文化 19選

便座の横についた温水洗浄便座の操作パネル
ウォシュレットは1980年、小倉のTOTOが売り出しました

トイレから髪型、元号まで。
福岡が生んだ技術と文化は、幅が広いです。
大陸にいちばん近い土地には、外から来たものが最初に根を下ろします。
米づくりも、禅も、カルタも、日本に入ってきた最初の場所は福岡でした。
そこに、近代の工場と炭鉱と港が生んだものが重なっています。

ウォシュレット(北九州市)——小倉のTOTOが1980年に発売

「ウォシュレット」は、小倉のTOTOが1980年に売り出した温水洗浄便座です。
温水で洗う便座そのものは、もともとアメリカで医療用に作られたもので、TOTOは1964年から輸入して売っていました。
それを日本の家庭向けに自社で作り直し、名前をつけて世に出したのが、この1980年のウォシュレットです。
今では他社の製品まで「ウォシュレット」と呼ばれるほど、この名前が定着しています。

ユニットバス(北九州市)——五輪前年、ホテルの工期短縮に

壁と床と浴槽が一体になったユニットバスは、1963年、翌年の東京オリンピックを控えたホテルニューオータニの工事を間に合わせるために、TOTOが中心になって開発しました。
現場で組み立てるだけの浴室は工期を大きく縮め、その後の日本の住宅に広まりました。
当時のユニットバスは北九州のTOTOミュージアムに移されて公開されています。

セーラー服(福岡市)——1921年、3つの学校がほぼ同時に

先に整理しておくと、上下に分かれた今のセーラー服を制服にした最初の学校には、愛知の金城学院(1921年9月)、神奈川のフェリス女学院(同11月)、そして福岡女学院(同12月)の3つの説があります。
どれもキリスト教系の女学校でした。
福岡女学院のセーラー服は評判になり、台湾の学校にも広まったと伝わります。
学院には「セーラー服発祥の地」の碑があります。
(※「セーラー」は英語で船乗り・水兵のこと。
もともとイギリスの水兵の服で、幼い王子が着た姿から子ども服として広まり、日本では女学生の制服になりました。)

サザエさん(福岡市)——百道の海岸の散歩から生まれた

作者の長谷川町子氏は戦時中に福岡へ疎開し、西日本新聞社で働いていました。
今の早良区・百道(ももち)の海岸を妹と散歩しているときに、磯野家の家族構成と名前を思いつき、1946年に地元紙「夕刊フクニチ」で連載を始めたのがサザエさんの始まりです。
サザエ、カツオ、ワカメ、フネ、波平。
海の名前ばかりなのは、海辺で生まれた作品だからです。
早良区には「サザエさん発案の地」の碑と、「サザエさん通り」があります。

パンチパーマ(北九州市)——最初は「チャンピオンパーマ」

1970年代、小倉北区の理容師・永沼重己(ながぬましげみ)氏が、黒人の髪型をヒントに考案した髪型です。
熱したヘアアイロンで髪を細かく巻き、あの細かいカールを作ります。
汗をかいても崩れにくく洗いやすいため、かつては野球やボクシングの選手にも人気がありました。
考案した「永沼理容」では今も「チャンピオンパーマ」と呼んでいて、店の看板には「元祖」の文字があります。

カルタ(大牟田市)——国産のカルタは、16世紀末の三池から

カルタはポルトガルから伝わった遊びですが、日本で作られたカルタの始まりは、16世紀末の筑後国三池(みいけ・現在の大牟田市)とされています。
1638年の俳諧の本「毛吹草(けふきぐさ)」には筑後の名産として「三池カルタ」が挙げられ、現存する最古級の札には「三池住貞次」の銘が残っています。
大牟田市には、カルタの歴史を伝える「三池カルタ・歴史資料館」があります。

ホワイトデー(福岡市)——博多の「マシュマロデー」から

ホワイトデーの起源には諸説あります。
そのなかで日本記念日協会が起源として登録しているのが、博多の老舗菓子店「石村萬盛堂(いしむらまんせいどう)」の説です。
1978年、バレンタインのお返しの日として、銘菓「鶴乃子」の黄身あんをチョコレートに替えてマシュマロで包んだ菓子を売り出し、「マシュマロデー」と名づけました。
のちに百貨店の求めで名前が「ホワイトデー」に変わり、全国に広まりました。

令和(太宰府市)——1300年前の「梅花の宴」から

元号「令和」の出典は、万葉集に収められた「梅花(ばいか)の歌三十二首」の序文です。
730年、大宰府の長官だった大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で開かれた梅の宴の様子を記したもので、国書から元号が選ばれたのは、これが初めてでした。
太宰府市には「令和発祥の都」を掲げる碑やマンホールがあり、宴の場所とされる坂本八幡宮には多くの人が訪れました。

バナナの叩き売り(門司港)——台湾バナナを傷む前に売る

独特の口上で客を集めてバナナを売る「叩き売り」。
大正時代のはじめ、門司港の周辺で始まったとされています。
当時のバナナは台湾から船で運ばれ、門司はその荷揚げ港でした。
運ぶ途中で熟れすぎたり傷がついたりしたバナナは長く置けないため、港のそばで威勢よく売り切る商売が生まれたのです。
門司港には「バナナの叩き売り発祥の地」の碑があります。

博多祇園山笠(福岡市)——僧が水をまいたのが始まり

毎年7月、博多の町を舁き山(かきやま)が駆け抜ける博多祇園山笠。
1241年、博多で疫病が流行したとき、承天寺(じょうてんじ)の僧・円爾(えんに)が町の人に担がれた棚に乗り、水をまいて町を清めたのが始まりと伝わります。
承天寺の境内には「山笠発祥之地」の碑があり、今も山笠のコースは寺の前を通ります。

ポン菓子機(北九州市)——戦後の食糧難に女性が作った

米に圧力をかけて一気に膨らませるポン菓子。
その機械を日本で作り始めたのが、大阪出身の吉村利子(よしむらとしこ)氏です。
戦後の食糧難のなか、腕のいい職人が多い戸畑にやって来て、1946年にポン菓子機を完成させました
。
戸畑の「タチバナ菓子機」は今も製造と修理を続けていて、北九州は「ポン菓子発祥の地」と呼ばれています。

博多織(福岡市)——宋から帰った商人が伝えた技術

帯で知られる博多織は、1241年、僧・円爾(えんに)と一緒に宋から帰国した博多の商人・満田弥三右衛門(みつだやざえもん)が持ち帰った織物の技術が始まりとされています。
帯の柄として有名な「献上柄」の独鈷(どっこ)と華皿(はなざら)の図案は、円爾の助言によるものと伝わります。
円爾が開いた承天寺(じょうてんじ)には弥三右衛門の碑があり、今も毎年秋に博多織の新作品評会がこの寺で開かれています。

競輪(北九州市)——国体の競技場を転用、1948年に第1回

1948年、小倉競輪場が日本で最初に認可された競輪場になり、ここで第1回の競輪が開かれました。
同じ年に福岡で開かれる国民体育大会のために作った自転車競技場を、そのまま競輪に使うという発想から生まれています。
「競輪発祥の地」と呼ばれ、今もGIレース「競輪祭」が毎年ここで開かれています。

炭坑節(田川市)——「月が出た出た」の煙突は今も

盆踊りの定番「炭坑節」は、田川の炭鉱で働く人たちが唄っていた歌が元で、田川市が発祥とされています。
歌詞に出てくる「あんまり煙突が高いので」の煙突は、三井田川炭鉱の二本煙突のこと。
煙突は今も田川市の石炭記念公園に残り、園内には「炭坑節発祥の地」の碑があります。

聖福寺(福岡市博多区)——日本最初の禅寺、栄西が開いた

1195年、宋から帰国した栄西(えいさい)が博多に開いた聖福寺(しょうふくじ)は、日本で最初の禅寺とされています。
「扶桑最初禅窟(ふそうさいしょぜんくつ)」=日本で最初の禅の道場、という別の呼び名も持っています。
宋から帰る船が着く博多で、栄西はまず教えを広めました。

稲作(福岡市博多区)——板付遺跡は、日本最古級の稲作の村

福岡市博多区の板付(いたづけ)遺跡は、縄文時代の終わりから弥生時代にかけての集落跡で、日本最古級の水田が見つかった場所です。
国の史跡になっていて、水田と竪穴住居が復元されています。
同じころの水田跡は佐賀県唐津市の菜畑(なばたけ)遺跡でも見つかっていて、日本の米づくりは、大陸に近い北部九州から始まったと考えられています。

西日本の海女(宗像市鐘崎)——能登や佐渡へ旅立った港

宗像(むなかた)市の鐘崎(かねざき)は、「西日本の海女発祥の地」とされる漁港です。
ここの海女たちは対馬海流に乗って日本海側へ出かけて漁をし、能登や佐渡の海女は鐘崎から渡った人たちに始まるという伝承が残っています。
その足跡をたどるように、日本海沿岸には宗像の神を祀る神社が点在しています。
鐘崎には「海女発祥の地」の碑があります。

種痘(朝倉市秋月)——日本で初めて天然痘の予防に成功

1790年、秋月藩の医師・緒方春朔(おがたしゅんさく)が、天然痘の予防接種「人痘(じんとう)」に日本で初めて成功しました。
中国の医学書にあった、かさぶたの粉を鼻から吸わせる方法を改良したものです。
牛の痘を使う「牛痘」が長崎に入る半世紀以上前のことで、春朔のもとには全国から医師が学びに来ました。
秋月には「我国種痘発祥之地」の碑があります。

銀天街(北九州市)——「銀天街」の名は小倉の魚町が最初

全国の商店街にある「銀天街」という名前。
その最初が、1951年10月に公道の上にアーケードをかけた小倉の魚町(うおまち)商店街です。
小倉駅から歩いてすぐの場所にあり、商店街には「銀天街発祥地」の碑が建っています。
今も小倉祇園太鼓の時期には、太鼓の音が響く町の中心です。

番外編|なぜ承天寺から、うどんも饅頭も生まれたのか

博多・承天寺の境内。中央の石碑に金色の文字で「御饅頭所」と刻まれている
承天寺の境内。中央が「御饅頭所」の碑で、うどん・そばの発祥を伝える碑も並んでいます

食の章で、うどん・そば、年越しそば、饅頭の3つに同じお寺の名前が出てきました。
地下鉄の祇園駅から歩いて3分ほどの承天寺(じょうてんじ)です。
山笠の発祥の碑も、博多織を伝えた商人の碑も、ここにあります。
ほかの土地に別の説があるものもあります。
ただ、これだけの「はじまり」がひとつの寺に集まったのは、偶然ではありません。
最後に、その理由を。

承天寺は1242年、宋(中国)の禅寺で6年間修行して帰ってきた僧・円爾(えんに)が開き、博多に住む宋の貿易商・謝国明(しゃこくめい)が土地を買って建てたお寺です。
当時の博多には、九州で最大の宋人の街「唐房(とうぼう)」があり、承天寺はその街の中に建っています。

円爾が宋から持ち帰ったのは、禅の教えだけではありません。
水車で粉を挽く技術(京都・東福寺に伝わる国宝の図に残っています)と、禅寺で麺や饅頭を食べる「点心」の習慣を、ひとまとめに持ち帰りました。
うどんも、そばも、饅頭も、どれも粉から作るものです。
その技術と習慣が、宋の人が暮らし、宋の商人が寺を支えていた博多で、まず形になった。
年越しそばの「運そば」の話に出てくる謝国明も、その商人のひとりです。

人と技術が、同じ船で、同じ港に着いた。
だから承天寺には、これだけの「はじまり」が集まっています。
今度福岡でうどんを食べる機会があれば、一度このお寺に寄ってからにしたいと思います。

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