米が育ちにくい土地から生まれた食 14選

長野県は海がなく、標高が高く、冬が長い県です。
米が思うように育たない土地で、人は漬け、干し、発酵させ、粉を練ってきました。
そうして磨かれた保存と発酵の技術が、いま全国のスーパーに並んでいます。
牛乳パン(伊那市)——最初は、牛乳が入っていなかった
分厚いパンに牛乳クリームを挟んだ、長野のご当地パン。
発祥には諸説ありますが、有力なのは伊那市の製パン会社が始めたものとされています。
面白いのはここからで、売り出した当時は食料事情が悪く牛乳が手に入らず、中身はバタークリームでした。
本当に牛乳が入るようになったのは、人気が出てからです。
いちごジャム(小諸市)——明治天皇に献上され、記念日になった
いちごの産地といえば栃木ですが、いちごジャムの発祥は小諸市とされています。
明治時代、塩川伊一郎(しおかわいいちろう)氏が地元のいちごでジャムを作り、品評会で好成績を収め、ついには明治天皇に献上されるまでになりました。
この献納を記念して、日本ジャム工業組合は4月20日を「ジャムの日」と定めています。
養命酒(中川村)——雪道で倒れていた老人から教わった
1602年、伊那郡大草村(現・中川村)の庄屋だった塩沢宗閑(しおざわそうかん)翁が、雪道で倒れている老人を助けたところ、お礼として薬用酒の製法を教わったと伝えられています。
以来400年以上、同じ土地で作られ続けています。
おやき(小川村ほか西山地方)——米が作れないから、粉で包んだ
小麦やそば粉の皮で、野沢菜やなす、かぼちゃを包んで焼いたもの。
発祥は長野市の西にある西山地方とされ、小川村が「おやきの里」として知られます。
傾斜地ばかりで米がほとんど作れなかったため、山で採れるものを粉で包んで主食にしていました。
野沢菜(野沢温泉村)——持ち帰った蕪が、雪国で別物になった
1756年、野沢温泉村の健命寺(けんめいじ)の住職が京都へ赴いた際、大阪の天王寺かぶの種を持ち帰って蒔(ま)いたのが始まりと伝わります(諸説あり)。
ところが寒い信州では根が育たず、代わりに葉と茎が大きく伸びました。
思惑どおりに育たなかったことが、そのまま名産品になっています。
なめ茸(千曲市)——ごはんのお供は、きのこ王国の発明
ごはんのお供の定番、瓶詰めのなめ茸。
エノキタケ栽培をしていた戸倉町(とぐらまち・現在の千曲市〈ちくまし〉)の小林崇章氏が、1960年頃に開発しました。
えのきたけを醤油で煮て瓶に詰めるという単純な加工ですが、栽培が広まった土地だからこそ、その使い道まで生まれています。
信州味噌(佐久市ほか)——寒さが味噌をうまくする
佐久市には「信州味噌発祥の地」の碑があります。
戦後、日本で生産・消費される味噌のおよそ4割が信州味噌になりました。
冷涼で乾燥した気候が雑菌を抑え、じっくり熟成させるのに向いていたためです。
えのきたけの瓶栽培(長野市松代)——きのこ王国のはじまり
スーパーで一年中買える白いえのきたけ。
あの姿は自然のものではなく、瓶の中で光を絞って育てた栽培品です。
1923年に松代町(まつしろまち)の教職員だった長谷川五作(はせがわごさく)氏が純粋培養に着手し、1931年頃から瓶栽培が始まりました。
長野県も公式資料で「きのこのビン栽培は長野市松代町が発祥」と記しており、いま長野県のきのこ生産額は日本一です。
川中島白桃(長野市川中島)——全国の桃売り場にある長野の地名
桃の売り場で見かける「川中島白桃」。
この川中島は、上杉謙信と武田信玄が戦った、あの長野市川中島です。
ここで生まれた品種が全国で栽培され、山形や福島の産地でも作られています。
市田柿(高森町)——天竜川の川霧が干す
高森町の旧・市田村で栽培されてきた渋柿と、その干し柿。
天竜川から立ちのぼる川霧と、盆地の寒暖差が、表面に白い粉をふいたもっちりした干し柿を作ります。
同じ品種を別の土地で干しても、この状態にはなりません。
プルーン栽培(佐久市)——宣教師が持ち込み、庭で接ぎ木した
昭和の初め、避暑に来た外国人宣教師が軽井沢にプルーンを植えました。
それを佐久市の植田氏が自分の庭で接ぎ木(つぎき)したのが、日本のプルーン栽培の始まりです。
いま長野県は全国のプルーン生産量のおよそ4割を占め、その大半が佐久市。
晴天が多く昼夜の寒暖差が大きい気候が、そのまま品質になりました。
寒の土用の丑の日(岡谷市)——うなぎを冬に食べる日を作った
うなぎを食べるのは夏の土用、という常識に対して、冬の土用にもうなぎを食べようと提唱したのが岡谷市でした。
諏訪湖と天竜川では昭和初期まで年間およそ38トンの天然うなぎが獲れ、海のない県なのに市民のうなぎ消費量は全国トップクラスです。
1998年に記念日として登録され、2001年には商標登録もされています。
ローメン(伊那市)——羊肉と蒸し麺の、ほかにない一杯
伊那市には「ローメン誕生の地」の碑があります。
蒸した中華麺にマトンとキャベツを合わせた、スープとも焼きそばともつかない料理です。
冷蔵設備が乏しい時代に、日持ちする蒸し麺を使う必要があったことが背景にあります。
協会7号酵母(諏訪市)——全国の日本酒の8割が、諏訪の酵母だった
日本酒は酵母がなければ造れません。
1946年、諏訪の宮坂醸造「真澄(ますみ)」のもろみから吟醸香の高い酵母が分離され、「協会7号」として全国に頒布されました。
以後、全国新酒鑑評会の出品酒の8割以上がこの酵母を使う時代が続きます。
全国の酒蔵の味の土台が、諏訪の一蔵から出ていました。
「東洋のスイス」が生んだものづくり 10選

諏訪は戦後、精密機械の集積地となり東洋のスイスと呼ばれました。
空襲を避けて疎開してきた工場が、湿度が低く水がきれいという時計づくり向きの土地にそのまま残ったためです。
長野のものづくりは、その場所にあったものから始まっています。
セイコーエプソン(諏訪市)——時計屋から世界のプリンターへ
1942年、諏訪市で時計商をしていた山崎久夫氏が「大和工業」として設立したのが始まりです。
現在はプリンターで世界シェア3位(2019年・米ガートナー調べ)。
腕時計の部品を削っていた技術が、そのままプリンターの精度になっています。
ADSL(伊那市)——日本のブロードバンドは、農協の有線放送から始まった
2000年代前半、日本の家庭を一気にインターネットにつないだADSL。
その日本初の公開実証実験は1997年、伊那市有線放送農業協同組合(いなあいネット)で行われました。
なぜ農協かというと、農村の有線放送電話の線はNTTの電話線より芯線が太くて抵抗が低く、ISDNも入っていなかったため実験に向いていたからです。
都市ではなく山あいの村の設備が、日本の高速通信の出発点になりました。
かっぱ寿司(長野市)——回転寿司チェーンは海のない県から
海のない長野県から、回転寿司の全国チェーンが生まれています。
1973年に長野市で設立され、1978年に寿司部門が独立、1979年に長野市で1号店が開店しました。
いまも全国に店舗を構える大手チェーンのひとつです。
AOKI(長野市)——「洋服の青木」から始まった
紳士服のAOKIは、1958年に更級郡篠ノ井町(さらしなぐん・しののいまち。
現在の長野市)で個人商店「洋服の青木」として創業しました。
長野の町の洋品店が、全国のロードサイドに並ぶ企業になっています。
ケンウッド(駒ヶ根市)——オーディオの名前は伊那谷生まれ
1946年、駒ヶ根市でラジオ受信機の部品を作る「春日無線電機商会」として設立されたのが始まりです。
戦後、疎開してきた技術者が伊那谷に残り、部品づくりが根づきました。
養老乃瀧(松本市)——名前は岐阜の滝、創業は松本
居酒屋チェーン大手の養老乃瀧(ようろうのたき)は、1938年に松本市で創業しました。
社名が岐阜県の養老の滝の伝説にちなんでいるため岐阜の会社だと思われがちですが、始まりは松本です。
マルコメ(長野市)——1854年創業の味噌屋
1854年、青木民右衛門(あおきたみえもん)氏が長野市で味噌・醤油の製造業として創業しました。
ペリーが来航した翌年にあたります。
現在は液体塩こうじや糀甘酒など、発酵を軸にした商品を広げています。
ハナマルキ(辰野町)——「マルキ印」から始まった
1918年、上伊那郡朝日村(現・辰野町)で「マルキ印」の商標により味噌・醤油の製造を開始しました。
テレビCMでおなじみの社名ですが、始まりは伊那の村です。
タケヤみそ(諏訪市)——諏訪湖のほとりで150年
1872年に諏訪市で創業。
味噌の全国大手3社が、同じ長野県から出ているのは偶然ではありません。
寒さと乾燥という同じ条件が、同じ時期に同じ産業を各地で育てました。
木曽漆器(塩尻市木曽平沢)——木と漆が同じ場所にあった
塩尻市の木曽平沢(きそひらさわ)を中心に作られる漆器で、1975年に国の伝統的工芸品に指定されています。
木曽ヒノキという材料と、漆に適した湿度、そして中山道という販路が同じ場所にそろっていました。
山があったから始まった文化 16選

長野には海がない代わりに、山があります。
その山に登る人、滑る人、避暑に来る人、泊まる人、歌にする人がいて、日本で最初の「山の使い方」がいくつも生まれました。
森林浴(上松町・赤沢自然休養林)——言葉そのものが、ここで始まった
「森林浴」は1982年、当時の林野庁長官が「海水浴」「日光浴」になぞらえて考案した和製漢語です。
同じ年、全国初の森林浴大会が上松町(あげまつまち)の赤沢自然休養林で開かれ、ここが日本の森林浴発祥の地とされています。
赤沢は日本三大美林のひとつ、樹齢300年を超える木曽ヒノキの森。
この森でなければ、この言葉は生まれませんでした。
唱歌「故郷」(中野市)——うさぎ追いしかの山は、長野の山
「うさぎ追いし かの山」で始まる、1914年発表の唱歌。
作詞したのは豊田村(現・中野市)出身の高野辰之(たかのたつゆき)氏で、歌詞の風景はこの地がモデルとされています。
日本人が思い浮かべる「ふるさと」の原風景は、長野の山でした。
民宿(白馬村)——登山客が多すぎて、家に泊めた
白馬村は日本の民宿発祥の地とされ、最初に宿泊所の許可を取った1937年を発祥の年としています。
白馬岳(しろうまだけ)を目指す登山客が増えたのに宿が足りず、農家が自宅の空き部屋に泊めたのが始まりでした。
避暑地・別荘文化(軽井沢町)——宣教師が「故郷に似ている」と言った
軽井沢は中山道の宿場町でしたが、鉄道の時代になって衰退しかけていました。
そこへ1880年代、カナダ人宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーが訪れ、西洋に似た気候風土だとして避暑地・別荘地に開拓します。
日本の別荘文化そのものが、ここから始まりました。
日本アルプス(松本市・大町市)——名づけたのはイギリス人だった
飛騨(ひだ)・木曽(きそ)・赤石(あかいし)の三山脈をまとめた呼び名、日本アルプス。
この呼び方を初めて使ったのは、日本に招かれたイギリス人技師ウィリアム・ゴーランドでした。
日本人以外で初めて槍ヶ岳(やりがたけ)に登った人物で、その槍ヶ岳は松本市と大町市の境にそびえています。
真田氏(上田市)——名字の発祥は、この谷
上田市には「真田氏発祥の郷」の碑が建ち、真田本城跡や真田氏館跡が残ります。
真田という名字そのものが、この地名から出ています。
上田は千曲川と山に挟まれた細い谷で、少ない兵で大軍を防ぐのに向いた地形でした。
かあさんの歌(長野市・旧信州新町)——疎開先で見た景色から
「母さんが夜なべをして手袋編んでくれた」で始まる歌。
作詞作曲した窪田聡氏が、戦時中に疎開していた信州新町(現・長野市)での記憶や情景をもとに書いたとされています。
ピンピンコロリ(高森町)——長寿県の合言葉が生まれた場所
最後まで元気に過ごし、寝込まずに逝く「ピンピンコロリ」。
1980年に下伊那郡高森町(たかもりまち)で北沢豊治氏が健康長寿体操を考案し、1983年に日本体育学会で発表したのが始まりです。
(有名な佐久市の「ぴんころ地蔵」は2003年の建立で、発祥地ではありません)
花いっぱい運動(松本市)——一人の先生が始めて、全国へ広がった
街角や駅前の花壇でよく見る「花いっぱい運動」。
1952年、松本市の小学校教員だった小松一三夢氏が発案しました。
戦後の荒れた街に花を植えて、景色と気持ちを立て直そうという運動です。
日本初のスキーリフト(山ノ内町・志賀高原)——歩いて登らなくてよくなった日
日本で最初のスキーリフトは、志賀高原の丸池に架けられました(1946〜47年)。
それまでスキーは、滑るたびに自分で登り返すものでした。
標高が高く雪質のよい志賀高原に、戦後まっさきに設備が入っています。
日本初のスケート競技大会(諏訪湖)——1908年、湖の上で
1908年、諏訪湖で日本初のスケート競技大会が開かれました。
かつては冬になると、湖の上を歩けるほど凍りました。
海のない県で、そんな氷の広場が街のすぐそばにあったことが出発点です。
(近年は温暖化で全面結氷しない年が増えています)
スズキ・メソード(松本市)——世界で使われる音楽教育法
母語を覚えるように楽器を覚える、という考え方の音楽教育法。
ヴァイオリニストの鈴木鎮一(すずきしんいち)氏が創始し、本部はいまも松本市にあります。
海外では「Suzuki Method」として知られ、日本より海外での知名度が高い教育法です。
山村留学(大町市八坂)——都会の子どもが、山の学校へ通う
都市の子どもが一年間、山村の学校に通って暮らす山村留学。
1968年、東京の小学校教師・青木孝安氏が夏休みに八坂村(やさかむら・現在の大町市八坂)で行った教育キャンプが発端でした。
過疎に悩む村と、自然を知らない都市の子ども。
その両方を一度に解く仕組みでした。
グライダー(諏訪市・霧ヶ峰)——エンジンのない飛行機と、高原の風
霧ヶ峰(きりがみね)は日本のグライダー発祥の地といわれ、大正時代から飛行が行われてきました。
なだらかな草原の斜面が生む上昇気流が、エンジンを持たない機体を持ち上げてくれます。
いまも週末には空にグライダーが浮かんでいます。
追分節(軽井沢町追分)——全国の民謡のルーツが、この宿場にある
北海道の江差追分(えさしおいわけ)をはじめ、日本各地に「追分」と名のつく民謡があります。
そのルーツは中山道の追分宿(おいわけじゅく)です。
中山道と北国街道が分かれるこの宿場から、馬を引く人たちの唄が、旅人によって全国へ運ばれていきました。
24時間開館の図書館(川上村)——日本で初めて夜通し開いた
千曲川の最上流にある川上村。
川上村文化センター図書館は、日本で初めて24時間開館を実施した図書館です。
村はレタスの一大産地で、収穫期は夜明け前から働く人が多い土地柄でした。
村の働き方に、図書館の側が合わせたことになります。
番外編|街道が通っていたから、始まりが1つに決まらない

ここまで40個を並べてきましたが、長野には「発祥の地が1つに決まっていない」ものも多くあります。
中山道、北国街道、甲州街道——長野は昔から、人とモノが通り抜けていく土地でした。
同じものが複数の場所で同じ頃に始まっていても、不思議ではありません。
そば切り——最古の記録は木曽、名高いのは本山宿
そばを麺の形にして食べる「そば切り」。
塩尻市の本山宿(もとやまじゅく)は、そば切り発祥の地として名高い宿場です。
大桑村(おおくわむら)の定勝寺(じょうしょうじ)に残る1574年の文書は、そば切りに関する日本最古級の記録とされています。
一方で、山梨県甲州市の栖雲寺(せいうんじ)を発祥とする説もあります。
コーヒーゼリー——発祥というより、広まりの起点
1963年、軽井沢の喫茶店「ミカド珈琲」が「食べるコーヒー」として出したのが、日本でコーヒーゼリーが広まるきっかけになりました。
当時はガムシロップとクリーム、ブランデーを添えた大人向けのデザートです。
ただし食べ物自体はそれ以前からあり、「発祥」というより「売れ始めた場所」と言うのが正確です。
五平餅——長野・岐阜・愛知にまたがる
つぶした米を串に付けて、味噌だれを塗って焼いたもの。
長野にも「五平餅の発祥の地」の碑がありますが、岐阜県や愛知県の山間部にも同じ主張があります。
木曽から美濃、三河へ抜ける山の道沿いに、同じ食べ方が並んでいるという見方もできます。
駅そば——軽井沢駅で1900年頃、という説
駅のホームで食べる立ち食いそば。
軽井沢駅で1900年頃に誕生したとされる説があり、「駅そば発祥の地」の碑も建っています。
ただし立ち食いそば自体の起源は江戸時代の屋台までさかのぼります。
カーリング——1937年、諏訪湖で
1936年の冬季オリンピックに参加した日本選手団が用具を持ち帰り、翌1937年に諏訪湖で実演したのが日本のカーリングの始まりとされています(諸説あり)。
ここでも「凍る湖がある」という条件が効いています。
長野の発祥に共通していること
こうして40個を並べてみると、ひとつの共通点が見えてきます。
どれも、その土地にあるものを最大限に使い切っているのです。
寒さは味噌と漬物をうまくし、凍る湖はスケートの舞台になりました。
木曽のヒノキは漆器と森林浴を生み、農村に引かれていた太い電線は、日本のブロードバンドの実験場になりました。
山があること、寒いこと、海がないこと。
長野の人はそれを条件として受け取り、そこから何ができるかを考えてきました。
だから発祥がこれほど多く、しかも食から通信まで散らばっているのだと思います。
次に長野を訪ねるときは、山の景色だけでなく、食や文化にも触れながら旅をしてみたいと思いました。
📺 YouTubeでも解説しています
👇動画でも解説しています、気になる方はこちらを👇
わくわくするような地理や都道府県の雑学をお届けします!
▶ チャンネルを見る
あわせて読みたい
しまむらもファミマも埼玉生まれ。暮らしを支える店から日本初の文化まで35の発祥。

サッポロ一番も築地銀だこも群馬から。全国に送り出してきた34の発祥。

虫刺され薬もファスナーも富山生まれ。薬売りの県が持つ30の発祥。

▶ ほかの「都道府県の雑学」の記事も読む:都道府県の雑学の記事一覧


コメント